家族カウンセラーの想いつれづれ
    一昨年の秋に、集団カウンセリングの可能性について中尾英司がブログで書きましたら、ONEFORALLというグループから依頼がありました。
    代表の方の人柄や人気なのでしょう、立ち上げたばかりなのに参加者が多くて驚きました。
    生まれたてのチャイルドに突き動かされたその方の輝きが人を引きつけたのでしょう。
    主催者さんたちやお手伝いの方々のご助力はもちろんのことですが、とくに辛い体験談を話してくださった方々、それを共有した参加者全員の力で、大成功に終わりました。

    その後、こちらの反省点が見えてきました。
    まず、ブログを持つ多くの人が集団カウンセリングについて書かれたことで守秘義務の徹底をそれこそ徹底して言わなかった反省があります。
    自分の持ち帰ったものだけ書かれるならいいのですが、他の方の体験を書いた場合、その方が傷つくこともあります。
    また、人の記憶はあいまいなもので、流れの中で変化することもおおいにあります。
    同じ時間、同じ場所でも個々で違うものを体感していたりします。
    私は久しぶりにネットの危険を感じました。

    参加者の間での色々な気持ち、参加したくても出来なかった人の色々な気持ち、それらの声が明確に聞こえてきました。
    去年の春から初夏にかけて中尾相談室は時間があけば会議の日々でした。
    反省して検討して見直しして、時間をおいて、案を持ち寄って、etc・・・。
    成功を活かしたい願いが強かったのですが、検討の末、集団カウンセリングは中止にしました。



    「ブログ」をうまく活用していかれることは大賛成です。
    カウンセリングでの自分の気づきを書かれる場合はそれもいいと思います。
    しかし、カウンセリングの細かい内容、カウンセラーとのメールの公開とか、驚くことが起こっていました。(こちらで知りえた方がたは快く訂正をしていただきました。)

    それらを読んだ人は、自分とは違う、どうして?と本来の自身の問題とは方向違いの痛みまで背負うことになりました。
    現実世界だけでも大変なのに、救いのネット世界でも苦しむなんてとても気の毒です。

    実際は個々人でカウンセリング内容が違うのは自然なことですが、それにしてもどの方ともそれほど大きな違いは生じてないのです。
    しかし文章で固定されてしまう事で、ことさらに強調されて感じられるのでしょう。

    人は弱いものです。嫉妬、羨望、絶望、怒りなど感情が揺れるのは自然なことです。
    そんな自分を責めることはありません。
    それらの気持ちに気付かずに無意識に迎合することさえあります。これは依存と共依存の関係になりかねません。

    たとえば、知人のブログに登場した人物が自分のとても大切な人だとわかり、その上とりわけ間柄が深いように書かれていていたとしたら、傷つき悲しむのはすごく自然なことです。(そのように書かれたブログがネチケットを大事にしていないのでしょう。)
    書かれている内容はその人の物語でしかありません。
    居心地の悪いブログに出会ったら離れていいのです。
    自分に活かせると思うものだけ貰っていけばよいのです。

    読みたくないのに読んでしまう、気分が悪いのに読んでしまう・・・そんな時は自分の中に聞いてみるといいです。

    「なぜそんなに気になるの?」

    なんか気になる、それならむしろがっつり自分の中で取り組んだら面白いと思います。
    自分へのヒントを無意識に見逃しているかもしれません。
    似たものがあるけど認めたくないのかもしれません。

    10年間、私がネット世界でたびたび見かけた現象ですが、「他人」のHPの日記や掲示板(今ではブログでしょうか)に執着が起こり、強い「愛情(友情など含む)」「怒り」「憎しみ」などが沸き起こってしまう人がありました。一時的ならまだしも、持続的ですと、はたから見たらとても不自然でした。

    今思えば、それらの人たちは、その対象へ「依存」があったのかもしれません。
    それは、自分が本当にぶつけたい「誰か(親、友人、知人、などなど)」への代償行為として起こっている感情だと思われます。
    それらの人への感情をいくら募らせても自分の心は幸せになりません。
    ぐるぐるとブラックホールのようになってしまいます。
    そんな時は、何かしら自分自身への課題を示しているのかも?ととらえて見据えることが積極的な解決法になるかもしれません。

    これはネットだけじゃなく現実社会の中でも言えると思います。





    関連記事


    追記を閉じる▲
    その後、こちらの反省点が見えてきました。
    まず、ブログを持つ多くの人が集団カウンセリングについて書かれたことで守秘義務の徹底をそれこそ徹底して言わなかった反省があります。
    自分の持ち帰ったものだけ書かれるならいいのですが、他の方の体験を書いた場合、その方が傷つくこともあります。
    また、人の記憶はあいまいなもので、流れの中で変化することもおおいにあります。
    同じ時間、同じ場所でも個々で違うものを体感していたりします。
    私は久しぶりにネットの危険を感じました。

    参加者の間での色々な気持ち、参加したくても出来なかった人の色々な気持ち、それらの声が明確に聞こえてきました。
    去年の春から初夏にかけて中尾相談室は時間があけば会議の日々でした。
    反省して検討して見直しして、時間をおいて、案を持ち寄って、etc・・・。
    成功を活かしたい願いが強かったのですが、検討の末、集団カウンセリングは中止にしました。



    「ブログ」をうまく活用していかれることは大賛成です。
    カウンセリングでの自分の気づきを書かれる場合はそれもいいと思います。
    しかし、カウンセリングの細かい内容、カウンセラーとのメールの公開とか、驚くことが起こっていました。(こちらで知りえた方がたは快く訂正をしていただきました。)

    それらを読んだ人は、自分とは違う、どうして?と本来の自身の問題とは方向違いの痛みまで背負うことになりました。
    現実世界だけでも大変なのに、救いのネット世界でも苦しむなんてとても気の毒です。

    実際は個々人でカウンセリング内容が違うのは自然なことですが、それにしてもどの方ともそれほど大きな違いは生じてないのです。
    しかし文章で固定されてしまう事で、ことさらに強調されて感じられるのでしょう。

    人は弱いものです。嫉妬、羨望、絶望、怒りなど感情が揺れるのは自然なことです。
    そんな自分を責めることはありません。
    それらの気持ちに気付かずに無意識に迎合することさえあります。これは依存と共依存の関係になりかねません。

    たとえば、知人のブログに登場した人物が自分のとても大切な人だとわかり、その上とりわけ間柄が深いように書かれていていたとしたら、傷つき悲しむのはすごく自然なことです。(そのように書かれたブログがネチケットを大事にしていないのでしょう。)
    書かれている内容はその人の物語でしかありません。
    居心地の悪いブログに出会ったら離れていいのです。
    自分に活かせると思うものだけ貰っていけばよいのです。

    読みたくないのに読んでしまう、気分が悪いのに読んでしまう・・・そんな時は自分の中に聞いてみるといいです。

    「なぜそんなに気になるの?」

    なんか気になる、それならむしろがっつり自分の中で取り組んだら面白いと思います。
    自分へのヒントを無意識に見逃しているかもしれません。
    似たものがあるけど認めたくないのかもしれません。

    10年間、私がネット世界でたびたび見かけた現象ですが、「他人」のHPの日記や掲示板(今ではブログでしょうか)に執着が起こり、強い「愛情(友情など含む)」「怒り」「憎しみ」などが沸き起こってしまう人がありました。一時的ならまだしも、持続的ですと、はたから見たらとても不自然でした。

    今思えば、それらの人たちは、その対象へ「依存」があったのかもしれません。
    それは、自分が本当にぶつけたい「誰か(親、友人、知人、などなど)」への代償行為として起こっている感情だと思われます。
    それらの人への感情をいくら募らせても自分の心は幸せになりません。
    ぐるぐるとブラックホールのようになってしまいます。
    そんな時は、何かしら自分自身への課題を示しているのかも?ととらえて見据えることが積極的な解決法になるかもしれません。

    これはネットだけじゃなく現実社会の中でも言えると思います。





    関連記事
    web拍手 by FC2

    【2011/01/22 14:01】 | 自律
    【タグ】 執着  依存と共依存    
    トラックバック(0) |
    コメント
    この記事へのコメント
    コメントを投稿
    URL:

    Pass:
    秘密: 管理者にだけ表示を許可
     
    トラックバック
    この記事のトラックバックURL
    この記事へのトラックバック